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『アメリカン・ゴシック傑作選』監修の言葉

巽 孝之 慶應義塾大学教授

 200411月、ジョージ・W・ブッシュ大統領再選の知らせを受けて、絶望した人々は数多い。アメリカ研究者も例外ではない。かつてあれほど光り輝いていた合衆国の星々はどこへ行ってしまったのか、イラク戦争以降の暗く惨憺たる陰謀の泥沼がまだまだ続くのかと、みんなが悲嘆に暮れたものである。

 だが、17世紀ピューリタン神権制下の植民地時代をふりかえるなら、セイラムの魔女狩りに典型的に見られたとおり、もともと「アメリカの夢」は「アメリカの悪夢」と表裏一体だった。アメリカの夢を民主的理想主義に等しいものと見てその失墜を嘆く向きもあるが、そもそもトマス・ジェファソン執筆になる独立宣言文書からして、民主主義の理念のもとにさまざまな矛盾を封じ込めた代物である。それは、トマス・コール風の崇高なるエデンの夢が、じっさいにはヒエロニムス・ボッシュ的な猥雑なるソドムの悪夢と切っても切れない関係を結んできたことを意味する。アメリカという名の近代国家の実験場は、その起源より、すでにいつもアメリカン・ゴシックという名の想像力の実験場であった。アメリカン・ゴシックの父とも呼ばれるチャールズ・ブロックデン・ブラウンは、必ずしもジェファソン的民主主義を批判したのではなく、むしろジェファソン本人があらかじめ心の「闇の奥」に隠しもっていた「闇の力」を露呈させたにすぎない。したがって、アメリカ的精神に忠実な書き手であればあるほど、ゴシック小説に手を染めるのは必然といえる。ブラウン以後、エドガー・アラン・ポウやナサニエル・ホーソーン、ハーマン・メルヴィルといったアメリカン・ルネッサンスを代表する作家たちがいずれもゴシック的想像力の持ち主であったことは、偶然ではない。それ以後も、ヘンリー・ジェイムズやウィリアム・フォークナー、トマス・ピンチョン、マーク・ダニエレブスキーに至るまで、文学史的な代表的作家たちはみな、ゴシック的想像力を経てアメリカ的本質へ迫っている。リディア・マライア・チャイルドからルイーザ・メイ・オルコット、アン・ライス、ジュウェル・ゴメスにおよぶフィーメール・ゴシックや、ジョージ・リッパードからHP・ラヴクラフトを経てスティーヴン・キング、マーク・ダニエレブスキーに至るゴシック・ホラーについては、指摘するまでもあるまい。

 このことは、主要なアメリカ文学研究がことごとくゴシック的想像力を意識してきたことからも証明される。リチャード・チェイスの『アメリカ小説とその伝統』(1957年)を皮切りにハリー・レヴィンの『闇の力』(1958年)、レスリー・フィードラーの『アメリカ小説における愛と死』(1966年)、ジェイン・トムキンズの『煽情的な構図』(1985年)、キャシー・デイヴィッドソンの『革命と言語』(1986年)、デイヴィッド・レナルズの『アメリカン・ルネッサンスの地層』(1988年)、それにわが八木敏雄の『アメリカン・ゴシックの水脈』(1992年)へ至る文学史研究の系譜を見るだけでも、それは一目瞭然だろう。

 したがってアメリカン・ゴシックは、アメリカ文学史上の特殊なサブジャンルどころではなく、むしろアメリカ文学およびアメリカ文化のうえで本質を成しつつ、時に応じて見え隠れする、それ自体が超現実的絵画にも似た構図にほかならない。ふだんは気がつかなくても、気がついたときにはとうに呪縛されてしまっているようなデザイン。

 ここで、たとえば黒人作家リチャード・ライトの自伝的小説『ブラック・ボーイ』(1966年)が参考になるだろうか。若き日の作家は、カネを稼ぐためとゼイン・グレイの抜群におもしろい連載小説を貪り読むために新聞配達に勤しんでいたが、まさにその新聞というのが黒人弾圧で知られる白人秘密結社KKKのシンパであることを知らされ、とてつもないショックを受ける。若きライトは、手練れの大衆作家グレイの作品に我を忘れ、過酷な現実のことも忘れて没入していたのに、さてほかならぬグレイ作品の発表舞台というのが、現実と無縁どころではない人種差別的政治学の温床だったのだからたまらない。批評家テレサ・ゴドゥーはこのエピソードに注目して、アメリカン・ゴシックとは現実逃避のエンタテインメントどころか、KKKによって日々再演されていた現実そのものであることを喝破する(『ゴシック・アメリカ』[コロンビア大学出版局、1997])。最も通俗的に見える虚構のうちにこそ、最も痛切な現実が刷り込まれていることは、決して珍しくない。

 このたびアティーナ・プレスから発刊されることになった『アメリカン・ゴシック傑作選』は、以上の文脈より再評価の気運高まる19世紀作家たちを中心に、アメリカ的意識史の中核に潜むゴシック的想像力の原形質を発掘する野心的な試みである。北米自体においても入手困難な名作テクストを復刊するこの叢書に、どうか大きな期待を寄せていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

巽 孝之 監修『アメリカン・ゴシック傑作選』を推薦する

サミュエル・オッター カリフォルニア大学バークレー校英語英文学教授

 巽孝之教授がここに選んだ8つの小説は19世紀半ばにアメリカ合衆国で出版されたゴシック小説の幅広さをよくあらわしている。当時もっとも人気を博し、読者を惹きつけてやまなかった小説とはどんなものであったかを知りたいなら、この選集をひもとくことだ。単に読んで面白いだけではない。ホーソーン、ポウ、メルヴィル、ストウ、ホイットマンといった同時代の著名な作家が作品を生み出した文化的文脈への、より深い理解を与えてくれるのである。この『アメリカン・ゴシック傑作選』に収められた小説の大半は本国アメリカで長らく絶版となっているが、日本の読者は今回の復刻によって「アメリカン・ルネッサンス」期のもっとも重要な大衆文学に触れるという、掛け値ない僥倖に浴することになるだろう。

 1820年、批評家シドニー・スミスは「エディンバラ・レビュー」において痛烈に問いかけたものである。いわく「いったい誰がアメリカの本を読むというのだ」と。ジョン・ニール、ウィリアム・ギルモア・シムズ、“マライア・マンク”、ロバート・モンゴメリ・バード、ジョージ・リッパードらは、さまざまな方法でこの疑問に対する回答を模索した。彼らの小説もまた、アメリカの題材を発掘し、その文学伝統を表明しようとする試みの一部だったのだ。たとえば「北アメリカの物語」という副題をもつ『レイチェル・ダイアー』において、ニールは告白の強要や偽証をクローズアップしながら1692年マサチューセッツ州セイラムで起こった魔女狩りの諸事件を物語化する。シムズの『マーティン・フェイバー』とリッパードの『クエーカー・シティ』は、ともに誘惑や殺人といった実際の犯罪のかげに隠された心理や社会的文脈を探り出している。そして、『マライア・マンクの恐るべき暴露』の語り手は南北アメリカのカトリック教会の壁の向こう側で繰り広げられたとおぼしき捕囚、レイプ、嬰児殺しといった実におぞましい秘密を暴いてゆくのである(彼女の話は反カトリシズム派牧師たちとともに捏造されたものだ)。さらに『シェパード・リー』のバードは同時代アメリカを表象するのにフィラデルフィアという都市を中心に据え、若い主人公のたましいが次々と他者の身体に乗り移っては、アメリカ社会のさまざまな人種的・階級的立場を移動してゆく物語を描き出す。アメリカの都市は、本選集収録のリッパードの3つの小説すべてにおいて作者が文学的・政治的情熱をそそぐ舞台となっているが、彼にとってフィラデルフィアやニューヨークは貴族政治と腐敗の象徴であり、そこではアメリカ独立革命で理想とされた民主主義的展望はもはや消え去っているのだ。

 ここに収められたゴシック作家たちは、みずからの考える「アメリカ文学」を書くためにイギリス・ゴシック小説の伝統を驚くべき方法で利用した。彼らはみなイギリス・ゴシック小説の約束事をアメリカの地に移植し、奇妙なかたちに作り上げて読者に示すのである。たとえばシムズの幽霊に取り憑かれた風景や二重人格的な登場人物たちがそうだ。“マンク”の女子修道院やリッパードの「修道館(マンク・ホール)」は秘密空間や地下通路に満ち満ちている。バード作品の安住を知らぬたましいは他者の身体に飛び込んでは飛び出してゆき、ニール、シムズ、“マンク”らの登場人物は捩じれた告白をする。そして、リッパードは時空間をまさに実験的に操作している(『エンパイア・シティ』第二部における鉄道の旅の驚くべき描写を参照されたい)。とりわけチャイルドの古代ギリシャ歴史ロマンス『フィロシア』はいろいろな意味で反ゴシック小説と言ってよい。彼女はここで19世紀アメリカを中世ヨーロッパでなく古代ギリシャに接続し、危険に晒された乙女ではなく、ふたりの実体をもった女性登場人物の感情的・知的つながりを生き生きと描き出しているのだから。

 こうした作家のなかに現在「正典」とされる19世紀アメリカ作家に直接的な影響を与えた者がいるのは疑いない。あるいは、デイヴィッド・S・レナルズが論じるように、大衆的であれ「正典的」であれ作家たちはみな「同じ文化イメージの貯蔵庫」から小説を紡ぎ出したのだと言えるかもしれない。いずれにせよ、このシリーズのために入念に選ばれた8つの小説を読むならば、19世紀前半のアメリカ合衆国における文学的達成の射程が、ますます深く味わえるようになるに違いない。(訳・永野文香)