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酒―イギリス人の生活に不可欠なもの

小林 章夫 上智大学名誉教授・帝京大学教授

 

 いまさら言うまでもなく、イギリス人の生活にとっての酒となると、とりわけビールが欠かすことのできないものであって、だからイギリス文化の歴史にはビールに関するテーマが頻出するのである。 ところで「世界のアルコール飲料の歴史をたどると、ワインという素晴らしい飲み物に恵まれた民族と、これに恵まれなかった哀れな民族とに分かれる」とは、ワインの世界を語らせては随一とされるヒュー・ジョンソンの言葉(拙訳『ワイン物語』)だが、このイギリス紳士の言にもかかわらず、イギリス人はビールに淫して飽きることがなかったし、現在もこれを飲んで倦むことがない。

 いや実は、それどころかボルドーの高級ワインはイギリスの上流階級が好んでやまなかったものだし、ポート・ワイン、つまりポルト酒はイギリス人の食後酒として不動の地位を守り続けてきた。しかも最近ではイギリス産のスパークリング・ワインが人気を集めているというから、変われば変わるものである。しかしイギリス人と酒と言えば、まずはビール、あるいはエールであり(ビールとエールの違いに関しては、一昔前にはかまびす喧しい議論があったが、現在は同じようなものとして扱われている)、したがって中世以来この飲み物を提供してきたさまざまの酒場エールハウスタヴァン、インなどの「パブリック・ハウス」、要するに現在は「パブ」の名前で総称されるものの歴史が語られるのである。

 さてここに復刻された8つの文献は、19世紀半ばから20世紀初頭に出版されたもので、イギリス人、イギリス社会とアルコール飲料とのかかわりを語った書物である。ただし一つだけ特異なものとして、Drinks of The World(1892)なるものがあり、これはそのタイトルが示すように、世界の飲み物の歴史を跡づけたものであって、ここには古代からのアルコール飲料の歴史が豊かなエピソード、図版とともに紹介されている。著者は二人、その一人は近世から近代のイギリス文化史に優れた話題を提供してきたJohn Ashtonという履歴不明の人物(この人物の著作は、アティーナ・プレスがすでに出版した『イギリス研究基本文献シリーズ Part5』に6冊が復刻されている)である。このアシュトンが残した書物に大いに助けられてきた筆者には嬉しいことこの上ない。

 この文献以外のものは、やはりビールが中心となり、この飲み物にまつわる興味深いエピソード、ビールを寿(ことほ)ぐ歌や詩を紹介した文献、そしてもちろん中世以来の酒場の歴史を扱ったものとなっているが、この中でも特に興味を惹くのはFrederick W. Hackwoodなる著者の手になるInns, Ales, and Drinking Customs of Old England(1909)である。全体で34章、400頁近くに及ぶこの大著には、古代からの飲み物の歴史に始まり、何と最終章では喫煙文化にまで筆が及んで読者を飽きさせることがない。文学作品への言及も数多くあるだけでなく、コーヒー・ハウスや諷刺画家ウィリアム・ホガースの作品なども取り上げられていて、多くの読者が注目すること間違いのない文献である。

 もう一つ、どうしても取り上げるべきは禁酒運動である。言うまでもなく19世紀半ばはイギリスで禁酒運動が盛んになった時期で、今回復刻されたものには、禁酒運動に賛同する立場から資料を跡づけたものが含まれている。しかしヴィクトリア女王がこの運動に肩入れしたにもかかわらず、イギリス人のビール好き、そしてジンをがぶ飲みする風潮は衰えることがなかった。

 イギリスにおける酒や嗜好品の歴史を興味深く辿るには、ここに翻刻された貴重な文献が情報の宝庫として大いに役立つことは間違いあるまい。いやそれだけではなく、イギリス人の生活にとって不可欠な話題に関心を有する人々には、色々と愉快なエピソードが提供されているから、それこそ酒席での歓談のネタとして絶好の話題が提供されるはずである。大いに楽しまれることを望みたい。

 そして、このような貴重な資料を後世に残してくれた人々、恐らくはジョン・アシュトンをはじめとする在野の研究者たちの功績に感謝する気持ちを忘れてはなるまい。