Athena Press

 

「イン」のさまざま

梅宮 創造 早稲田大学名誉教授

 

 アティーナ・プレスの継続企画として「イギリス研究基本シリーズ」(Athena Library of English Studies) があり、その一項目に「食文化シリーズ」がある。イギリスの食文化に関わるテーマを多方面に求め、重要な資料を各パートにまとめて着々と刊行されている。今回はさらに進めて、飲食の場の花形ともいうべきイン(Inn)を加えることになった。

 その昔、イギリスのインは旅人にとっての一夜の宿であり、地域住民にとっては、日々の生活に深く根をおろした人間交流の場であった。旅は昔なら馬にまたがり、あるいは徒歩で、あるいは馬車に乗る。近年に至っては車を走らせる忙しい旅もあろう。時代により、移動手段のちがいによって、旅の様相もさまざまに推移転変した。それに付随して、衰亡するインもあれば、宿屋としての機能を保ちつづけてきたインもある。宿泊だけでなく、インは同時に人びとの出遭いの場であり、飲食や談話に興じる集いの場であった。ときにはまた密談を交わしたり、契約を結んだり、悪事を計画したり、ラヴ・レターを綴ったりと、インはさまざまな場を提供してきた。古いインであればあるほど、その古びた外観や屋内の造作には歴史の渋みが浸みこみ、かずかずの物語が影を落としている。イギリスにはそのようなインが実に多い。さらにインの親戚としてタヴァンやホステルリがあり、エール・ハウスとかパブリック・ハウスなどもある。それらにはいずれ変らぬ共通項があって、すなわち人は、ここにイギリス文化の象徴を見るのである。

 本パートは全四巻から成り、初めの巻、チャールズ・ハーパーの一書はイングランド各地の古いインを手広く紹介し、それぞれのインにまつわる故事来歴に触れる。著者は膨大な資料を漁り、みずから諸方のインを訪ね歩いてはスケッチ画を描き、本書のページをゆたかに飾っている。読者は個々の古いインに残された珍しい伝承や、歴史的事実や、虚実相交わるエピソードのかずかずを堪能することができよう。たとえばアングロ・サクソン時代の呑屋の軒先からは「酒棒」(Ale-stake)と呼ばれる長い箒もどきの逸物が突き出していて、通行人に呑屋の所在を示す。古いインの暖炉ぎわでは「肉焼き犬」(Turnspit dog)が休みなく四肢を動かして大きな肉の鉄串を回転させている。あるいはインの看板でも、「絞首台看板」(Gallows sign)とやら、門前の道をまたいでサッカー・ゴールばりの大胆な看板が今もわずかに残っているそうだ。それやこれやを文と絵から、また古い写真をながめながら知るのは愉しいかぎりである。

 次の巻、A.E.リチャードソン・他による著作は各地各様のインを取り上げながら、土地に根ざしたイギリス文化の息吹をありありと伝えてくれる。古文書やら旅人の手紙やらを引用し、写真、版画、スケッチ画をちりばめて過去を現在によみがえらせようとする。ロンドンの古いインが鉄道の到来によって衰微すると、人びとの興味は郊外へ、地方へと移った。本書の終章では、道路地図をたよりに東西南北のインを訪ねて、イングランド各地の風土に直接触れていこうとする。

 三巻目の著者、B.W.マッツはディケンズ・フェロウシップの機関誌『ディケンジアン』の編集長を務めた人だけに、本書はディケンズ一色に染めつくされている感がつよい。前半はディケンズの出世作『ピクウィック・ペイパーズ』の叙述を追いながら、作中のインやタヴァンに言及する。後半ではディケンズのフィクションを制作年順に片っぱしから取り上げ、加えてスケッチ集や随想にも手をひろげる。それに止まらず、ディケンズの実人生におけるインとの関わりにも話がおよび、たとえばハムステッドの丘上に建つ「ジャック・ストローズ・カスル」にはディケンズが使用した椅子だのベッドが置いてあるとか。ディケンズ作中のインには実在のモデルもあれば、作者の想像によるものもある。『ハウスホールド・ワーズ』誌に掲載の「ドードー亭」(The Dodo)なども架空のインだが、およそ十年後にルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』にドードー鳥を登場させたのは、もしやディケンズの一篇に刺激されたものか。

 最後の巻、トマス・バークの書は中世のラングランドやチョーサーから十九世紀のトロロープに至るまで、数多の詩人、作家を選び、インにちなんだ作中の該当箇所を抜粋して掲げる。名作のアンソロジーといった趣であり、さすがに粒ぞろいの文集である。インにおける客と主人、客の到着から出発まで、女中や従僕、冒険だの遭遇だの、人間交渉にからむ種々様々なドラマが随所に躍動する。こういう珠玉のくだりを集めて読者の愉しみに供してくれるのは、まことに有難い。ひとつこれを枕頭に置いて、あちこち読み散らしながら、夢か現かの桃源郷にさまよいたいものである。序文に曰く。「我らのインは生活の中心にあり、永遠の若さを誇るものである」と。過去は死物どころか、人びとの心にいつまでも、みずみずしく生きているという次第だろう。その事実を納得させてくれるのが本書である。ついでながら著者は、古いインの魅力を忘れかけている現代のイン・オーナーへ、そして現代の軽薄な自動車旅行者へと、この一書を捧げている。故(ふる)きを温めて新しきを知れ、というべきか。本パートの有終の美を飾る、実に味わいぶかい一巻である。