Athena Press

 

一次史料と文学的想像力

舌津 智之 立教大学教授

 

 Montgomery WardとSears Roebuckの通販カタログは、アティーナ・プレスよりすでに1942年版と1965年版が刊行されている。今回、その間を埋める1950年版が出たことにより、20世紀中葉の消費文化をさらに詳しく動的なプロセスとして捉え返すことが可能になった。19世紀末以降、アメリカの平均的な家庭には聖書と通販カタログがあったと言われるほど、この分厚い商品紹介冊子は米国市民にとって馴染み深いものだった。パクス・アメリカーナの息吹きを伝える今回の1950年版は、核家族という単位に支えられた経済的繁栄を映す形で、主婦や子どもの存在を前面に打ち出すものとなっている。中産階級の家庭で必要となりうる物品のすべてがここに揃っていると言っても過言ではない。

 通販カタログは、(衣料品に多くの紙面が割かれているので)服飾史はもちろんのこと、読み手の関心に応じ、大衆文化のあらゆる領域について貴重な一次史料を提供してくれる。1942年版と1950年版を比較してみると、後者に初登場するテレビの存在は読者の目を引くが、そのテレビ画面のイラストには、野球やアメフトの試合が描かれている(NBAはまだ1946年に設立されたばかりだった)。こうした細部に注目するならば、スポーツ受容史の具体的な底流が見えてくる。一般市民のレベルでいかなるスポーツが愛好されていたのか、ゴルフクラブ、テニスラケットから卓球台に至るまで、スポーツ用品の掲載状況を調べてみるのもよい。あるいは、大衆音楽に興味のある読者なら、エレキギターの歴史的変遷に目を留めるかもしれない。42年版のモンゴメリー・ウォードのカタログには、ハワイアンのスティール・ギターが載っている。弦楽器一般に関しては、ギターとバイオリンに加え、バンジョーも通販の定番だが、そうしたラインナップが示すのは、カントリー音楽の人気であろう。一方、時代を下ると、エレキギターは、ロックを演奏する楽器として流通し、60年代には(アンプと合わせて)商品掲載数が膨れ上がる。

 しかし、本書から多大なる恩恵を受けるのは、案外、文学研究者かもしれない。一見無機質な商品の羅列に過ぎないカタログの細部には、それを求める生活者の情動が宿っているからである。たとえば、テネシー・ウィリアムズの出世作である『ガラスの動物園』(1944年)に登場する母親が、化粧用パフを娘の胸に詰めて女性の魅力を演出しようとする挿話を思い出してみよう。これは、エキセントリックな母親の奇抜なふるまいなのだろうか。早速1942年版の通販カタログを見てみると、そこには、胸を大きく見せるのに使う木綿の詰め物が、立派な商品(77セント)として販売されていたことが分かる。

 そもそも、通販カタログの存在自体、アメリカ文学の重要なモチーフとなってきたことは注目に値する。一例として、文豪ウィリアム・フォークナーの後期作品が挙げられる。彼が1950年代に発表した『町』(と『館』)には、モンゴメリー・ウォード・スノープスと名づけられた人物が登場する。これは無論、ビジネスマンの鑑たるモンゴメリー・ウォードにあやかった名前である。作品中、いかがわしい商売に身を染めるこの登場人物は、ひとまず、資本主義的欲望に囚われた俗物なのかもしれない。しかし、フォークナーの文学的想像力における通販カタログとは、商業主義や消費社会の悪しき象徴であると片付けることはできない。ここで、同じく『町』の脇役として登場する老嬢ミス・ハバーシャムが、『墓地への侵入者』(1948年)において、「シアーズ・ローバックのカタログに載っている2ドル98セントの服」を着ていることは興味深い。年老いた彼女は、旧南部の残照を身に帯びつつも、ある意味、民主的・庶民的な日常を生きている。その彼女は、黒人の冤罪を晴らすため墓の掘り起こしを計画する主人公に、自らの行商用トラックを提供するのである。

 通販カタログに興味を寄せた作家はフォークナーだけではない。早くは、『雲雀の歌』(1915年)を書いたウィラ・キャザーが、躍動する新時代のモニュメントとして、シカゴに聳え立つモンゴメリー・ウォード社のビルを小説中に描き込んでいる。また、スタインベックの『赤い仔馬』(1937年)は、カリフォルニアの農場に暮らす一家が、郵便受けに届くモンゴメリー・ウォードのカタログを楽しみにしている日常を活写する。あるいは、リチャード・ライトの短編「もうあと少しで大人」(1961年)には、シアーズ・ローバックのカタログを見てピストルを手に入れる黒人少年が、自らのアイデンティティをめぐる不安と欲望に揺れ惑う姿が描かれている。

 なるほど、通販カタログのような一次史料に「文学性」は見出せないと、昨今の浮薄な「カルスタ」を嘆く向きもあろう。が、文学作品の背景を理解しようとする際、筆者は、作家にゆかりの土地を訪ねたりするよりも(時間は二つの場所を隔てる最も遠い距離である)、同時代を彩った活字メディアや流行歌など、複製可能な何かにふれることでヒントを得る場合が多い。およそ人文学とは過去の追体験と再創造の謂いであり、このデジタル化の時代に、あえて紙媒体のカタログ復刻版が意味を持つ理由もそこにある。ずっしり重い冊子をめくる手触りや、視界に入る見開きページの広がりを体感し、当時を生きた人々と同じ経験を共有することこそ、(知的なゲームとは異なる)真摯な研究への扉を開くことになるのではあるまいか。