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「生理学」シリーズの原点

小倉 孝誠 慶應義塾大学教授

 これまで『パリの悪魔』、エドモン・テクシエ『タブロー・ド・パリ』、そして『大都市――新パリ案内』など、19世紀フランスで刊行された代表的な「生理学」ものを復刻してきたアティーナ・プレスが、ついに『パリあるいは百一の書』全15巻(1831-34)を刊行することになった。壮挙である。なぜならこれは、一連の生理学シリーズの嚆矢と言える著作であり、各巻とも400頁を超え、15巻からなるという分量の面でも、他の追随を許さないからだ。

 七月王政期(1830-48)は、印刷技術が進歩し、教育制度の整備によって識字率が上昇し、ジャーナリズムが飛躍的に発展した時代として知られる。その時代に、生理学ものはしばしば数巻から構成される著作として出版された。生理学とは、同時代の社会・文化現象、さまざまな階層に属し、さまざまな職業に従事する人々の習俗、都市生活と関連の深い行政制度や施設を、作者の個人的な体験をまじえて叙述するルポルタージュ文学であり、1840年代にピークを迎えた。その特権的な対象はパリとパリ市民の生態であり、だからこそ今回の『パリあるいは百一の書』のように、タイトルにパリを含むことが多い。

 その後の生理学シリーズと異なり、本書には挿絵が付されていない。しかしその点を除けば、構成と主題とレトリックの点で、『パリあるいは百一の書』はまさに生理学ジャンルの方向性を決定づけたと言える。それはどういう意味か。

 まず生理学シリーズは、18世紀の作家メルシエの『タブロー・ド・パリ』をパノラマ文学の範と仰ぐ。本書の序文の作者は、「メルシエが18世紀のパリについて行なったことを、現代のパリについて行なう」のだと宣言する。その作業が単独の人間によってなしえないのは、革命後に近代化し、肥大したパリの多面性を全体的に分析するためには、さまざまな領域で活躍する多くの著者の協力が必要だからである。

 次に、取り上げられている話題の多様性が目をひく。さまざまな人物類型、パリの諸界隈、建造物と歴史的モニュメント、行政と司法の制度、経済や教育や社会生活と関係する施設など、パリとパリ人のあらゆる面を網羅している。このようなテーマ設定は、その後パリに関する生理学シリーズが継承することになる。さらに、同時代の出来事への目配りも行き届いている。第1-3巻は1831年に刊行されているが、その時点で予定されていなかった項目が、ほぼリアルタイムで第4巻以降で取り上げられるのがその証しである。たとえば、1832年パリで多くの犠牲者を出したコレラが第5巻(1832)で、「1832年の若き共和主義者」が第10巻(1833)で取り上げられている。コレラと共和派の蜂起は、1832年のパリを揺るがした大事件だった。

 章の数は合わせて約250、それを執筆した著者の数は160人に及ぶ。シャトーブリアン、ユゴー、バルザック、デュマなどの作家、ギゾーやティエールなどの歴史家、アラゴやジュシューなどの科学者、そしてクーザンやジュフロワといった哲学者など、当時のフランスの文壇と知識人を代表する人々がすべて名を連ねるという、豪華な執筆陣である。いかに大きな出版企画だったかがよく分かる。

 科学者が執筆者として名を連ねていることは、生理学ジャンルの一つの特徴を際立たせる。異なる階層に属し、さまざまな職業についている人々の習俗を識別し、記述するのは、あたかも動物学者が動物の属性を記述し、植物学者が植物を分類することに似ている。生理学ジャンルに見られる人物描写と、博物学的な記述のあいだには同じ精神が通底しているのだ。生理学の流行した時代が、博物学の黄金時代でもあったというのは偶然ではない。

 パリを知るためには、歩かなければならない。都市という書物は、あてもなく放浪する者にしかその秘密を明らかにしてくれない。後にボードレールが推奨する「遊歩者 flâneur」の視線が重要になるのは、そのためである。『パリあるいは百一の書』第6巻にはずばり「パリの遊歩者」という章があり、次のような一文が読まれる。「彼の探索するまなざしはすべてを捉える。彼はあらゆることに興味を抱き、すべてが彼にとっては観察するテキストにほかならない」。テキスト、すなわち読み解き、解釈すべき対象だということである。

 他分野にわたる数多くの著者の共同作業、質量ともに充実した内容、博物誌的なアプローチ、そして遊歩者の精神――『パリあるいは百一の書』には、生理学シリーズの特質がすべて豊かにそなわっている。1830年代のパリへ、バルザックとロマン主義のパリへ旅立つのに、これほどふさわしい案内書はない。